回心の時―認知症との出会い

FEBC特別番組 認知症とは何か?
中川博道(カトリック・カルメル会宇治修道院司祭)
聞き手:長倉崇宣
2021年12月31日放送「第一回 最後の回心の時」

FEBC月刊誌2022年1月号記事より

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私たちカルメル会という修道会は共同生活を大切にしている修道会で、朝昼晩一緒に祈り、朝夕の一時間近くの念祷の時間に一緒に座る等の生活をしています。そういう中で長年一緒に生きていると、家族以上にお互いのことを知り、その存在の重みを感じる日常生活となります。ですので、今一緒に生きている仲間が老いていく姿を見ながら、自分の老いをも考えさせられる。つまり、この状況を突き抜けて死の向こうへ行かれた方々こそ、その残してくれた姿によって、私の老いの先を歩いて今の私を支えてくれている存在なんですね。その意味で、決して過去の存在ではないのです。


私の大先輩に奥村一郎神父がいます。彼は75歳を過ぎて宇治修道院に移ってこられたのですが、その直後くらいから「今までの自分ではなくなっていく」ということを口走るようになられました。さらにその数年後には、アルツハイマー型認知症と診断されました。あれだけの膨大な著作を残され、バチカンの宗教顧問もなさった方です。美しい言葉を紡ぐことがお出来になる方だったし、しかも言葉だけでなくそれを生きることに自らを賭けていらっしゃった。そういう方が認知症となり、言葉を失っていかれたのです。だから、今までの自分が失われていくことを強烈に感じておられたのでしょう。ある時期には「私はもう死にます」と盛んに口走られるようになられた。せん妄も起こって、さぞ恐怖心も強くおありだったと思います。奥村神父様はご健在の時から「人間は最後には全てが剥奪されていき、そして神のみが残っていく」と仰っていたのですが、その通りご自分の内に実現していかれるということを体験しておられたのだと思います。その最晩年には、御聖体さえ「これは何ですか?」と仰るようになっていかれました。けれども、この神に賭けておられるお姿というのは本当に変わらないものとして生き抜かれたのです。私は、それを目の当たりにさせて頂きました。

 

キリスト教の人間理解にとって、認知能力というのは、人間の様々な内面の能力のごく一部でしかありません。認知症を抱えた方と一緒に生きる中で分かったのは、人間とは何か、知性や能力、才能とは何なのかということです。それは、そういうものが過ぎ去ってもなお残る人格とは何なのかを見る目を養っていくということです。その意味で、「回心」がなければ、私たちは本当に死にたくなるような経験をするということでもあります。 

 

 キリスト教で言う「回心」は、メタノイアというギリシャ語で「今まで思っていたことから、実はこうだったんだと気づいて、考え方を改めていく」という意味の言葉です。ですから、実は私たちにとって人間についての考え方を改めて行く貴重な時が、認知症を患っておられる方と一緒に歩む中にあるのではないかと私は思います。それは「たとえどうなっても神に愛されているのだ」という次元で、人間を見つめ直していく機会を頂いているということです。確かに先輩や親のような存在が認知症となる時、それは私たちにとって大きな失望になるでしょう。特に自分を指導してくださったような方であれば尚更です。しかしそれこそが、人間とは何かを本当に学ぶプロセスなのではないでしょうか。まさに信仰者にとって生々しい「回心」なのです。

 

そのことを思い巡らす中で、私は恩師のドイツ人司祭のことを思い出すのです。私にとって第二の父親のような彼が、その晩年に入院され車椅子生活の中で言葉も上手く出なくなっていた頃に、お見舞いに伺いました。そして帰ろうとした時に、「こうやって思い返すと、本当に感謝することばかりですね」ってとても明るい表情で仰ったんですね。それを聞いた時、30年ほど前にその神父様と出会ったばかりの時のことを思い出しました。当時、私は未だ10代、洗礼を受ける前でした。そんな私に彼は「あなたは老後をどう生きるつもりですか?」と聞いたのです。彼もまだ40代だったと思います。そして、「私は修道者だから、看てくれる家族もいないし、晩年は車椅子にでも乗せられて、独りで過ごさなくてはいけなくなると思います。でも、そういう状況になった時、私は感謝出来る人間になりたいんです。」と仰った。ああ、この方はずっとその言葉のように生きようとして来られたと気付かされた!私はそのことを生き様として見せて頂いた思いがします。そして、この「生き方」は、認知症をさえ貫く次元の事柄なのだと思うのです。 

 

—認知症は祈りの言葉や所作も人から忘れさせてしまうと思いますが、祈りを重んじるカルメル会で生きる人として、では、いったい祈りとは何だとお考えになられますか?

アビラの聖テレジアが、霊性の歴史を通しての祈りの定義としては一つの頂点とも言える言葉を残しています。「自分が神から愛されていることを知りつつ、神と二人きりになって過ごしながら、友情の交換をしていくこと。」という言葉です。つまり、彼女にとって祈りは認識の問題ではないのです。たとえ何があっても「神と共にいること」、それこそが祈りだとも言っています。私は、カルメル会が祈りの修道会であるということの意味は、この人間の最も深い現実を確かめ続けていくためにあるのではないかと考えているのです。すなわち、全てが取り去られても、これだけは残るという人間の根っこがどこにあるかを、日常の中で確かめ、注意深く生きていくために私たちはいるのだと。私たちに命を与え、この存在を支えて下さっている御方は愛そのものの御方です。たとえ私にどんなことがあったとしても、たとえ人から見捨てられても、この御方だけは一緒にいてくださるということを確かめていくこと。ここに私たちカルメル会、そしてキリスト者の存在意義はあると思うのです。

 

 今、日本のどの教会でも「高齢化が大変だ」と言います。けれどもこれは、本当に信仰の核心を生きていけるかどうかの膨大なチャンスだと私は考えています。何か楽しいイベントがあるから、何か大切な働きがあるから教会に来て下さいということではなくて、「何も無いけれど、生きる価値がある」ということを身をもって示していけるかどうかということです。つまり、福音を本当の意味で人々に伝えていけるかどうかのチャンスなのです。

 

 アビラの聖テレジアは、女子カルメル会を改革した時に一体何をしたかといえば、禁域の中に閉じこもって、社会的には何もしていないのです。ただ手仕事をし、そこで祈って、ごくごく慎ましやかで誰にも目立たない日常性を生きる。しかし、その中に本当の価値は隠れている。そのことを証しようとしたのが、この女子カルメル会なのです。

 

どこにも行かない、誰にも会えない。でも、ここで神との出会いを生きていけさえすれば、全ての人の幸せを祈り、生きる意味を満たしていけるのです。老いもまた同じです。何も出来なくてどこにも行けなくなっても、生きることの究極の意味を見出し続けていける理由がここにある。

 

コロナ禍で世界中が立ち往生しているような中にあります。だからこそ、ここで本当に立ち止まって、人間として生きる意味や幸せとは何かを考えるための呼びかけとして、私たちはチャンスを頂いているのだと思います。認知症の課題も、これと重なって見えてきます。私自身、ベッドの上が自分の生活の場となった時にどうするか。私も美しく生きていけるように心していきたいと思っています。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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