独りでいる交わり

ボンヘッファー著『共に生きる生活』を読む(再)
江藤直純(ルーテル学院大学前学長)お相手・吉崎恵子
2月12日放送「ひとりでいる日—交わり」

FEBC月刊誌2022年2月増刊号記事より

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江藤
「共に生きる生活」というこの本の中で、3章のタイトルは「ひとりでいる日」なんですよね。その冒頭で、「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。シオンにいます神よ。」(詩編65:2)という聖書の言葉をひきながら語るボンヘッファーの次の言葉にハッとさせられます。

「多くの人は、ひとりでいることを恐れて交わりを求める。」 

そして、「ひとりでいることのできない人は、交わりに入ることを用心しなさい」と彼は続け、更に断言するのです。

「もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは召された者たちとの交わりとは何の関わりも持つことはできない。」

吉崎
大変厳しい言葉ですね。それは、自分の足でしっかり立てということなんですか?

江藤
ボンヘッファーは、孤立とも自立とも違って、「自分が自分であることを受け取って生きる」っていうことを言いたいのだと思うんです。
創世記の最初、アダムとエバが禁じられた木の実を食べて隠れてしまう時に、神様は「おまえはどこにいるのか」と声をかけられますよね。そういうときに、「私はここにいます」と応える存在。他の誰からも隠れたとしても、この神の御前に立つ、そういう一人のことです。だから、彼は強い言葉を使って言います。

「キリスト者の交わりは決して霊的な療養所(サナトリウム)のようなものではない。自分自身から逃避して交わりに入って来る者は、そこをおしゃべりと気晴らしの場所として誤用している。」。

つまり、「自分自身から逃避して」というこの言葉が鍵だと思います。
そして、彼は正反対のことも同時に言うのです。

「しかしその逆の命題もまた真である—交わりの中にいない人は、ひとりでいることを用心しなさい。」

「あなたは教会の中へと召された。召しはあなただけに向けられているのではなく、召された者の教会において、あなたは自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。死の時においてさえも、あなたはひとりではない。そして最後の裁きの日に、あなたはイエス・キリストの大きな教会の一つの肢となるだろう。」

個であることに召された者こそが、実は交わりの中で、生きたキリストの肢として繋がり合っているということが、賜物として与えられると彼は知っているんですね。

吉崎
でも、一人で生まれ、一人で死んでいく全く孤独な私たちが、孤独でありながら孤立しないってことは果たしてあるのでしょうか?

江藤
一人で御前に立つその人にとり、インマヌエル—私は、あなたと共にいると言われる方が、その人の前にいらっしゃるんです。ここにおいて、この御方において、私たちは一人であることも、共にあることもその両方が初めて可能になるということなんだと思います。

だから、ボンヘッファーは、御前で沈黙することを勧めます。

「沈黙と言葉とは、ちょうどひとりでいることと交わりとの関係と同様に、内的な結合と区別の関係にある。一方なしに他方はありえない。正しい言葉は沈黙から来るように、正しい沈黙は言葉から来る」。

何のために沈黙するか。それは、御言葉を聴くためです。その御言葉が、生きて、私の中に働いて、私の魂の奥に響くように語りかけるようにするためです。

語ることの前に、考えることの前に、聖書研究をする前に、静かに言葉自体を聴け、あなたのために今ここで語られる生ける神の言葉をというんです。「生ける」というのは、今、ここで、この私に向かって語られているということですよね。全く個人的に、私自身に、神の言葉が何を語っているかを心静まって聴くようにと、彼は語るんですね。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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